今年は年始より新型コロナウイルスの多大な影響を受け、まだしばらくの間はこの困難に耐えなければなりません。神戸でも1995年から阪神淡路大震災で犠牲になられた方々への鎮魂と復興をテーマに行われてきた神戸ルミナリエが、当初の計画通りには行えないこととなりました。関係者のご助力により過去の映像の配信や、規模を縮小し東遊園地に限りイルミネーションの照灯が行われますぴかぴか (新しい)    

私たちは例年とは違う12月を迎えています。大勢での忘年会やにぎやかなクリスマスパーティーはなかなか難しくなっています。しかし私がより例年と違うと感じているのは、すでに日本で年中行事と化している年末の第九の演奏です。一万人の第九を筆頭に年末には日本中のプロ・アマ問わずオーケストラ、合唱団がベートーベン作曲交響曲第九番を演奏します。さらに今年はベートーベン生誕250年、ベートーベンイヤーとしていつもにもまして盛大に第九が奏でられたはずでした。そのはずが規模の縮小や中止といった残念な状況となっています。このような困難な状況はまるでベートーベンの人生そのものを想起させます。

ということで、今回はベートーベンと彼の作曲した第九について少しお話しますひらめき

 

ベートーベンは宮廷声楽家の父親と宮廷料理人の母親の長男として1770年12月ドイツに生まれました。父親ヨハンはベートーベンにピアノを教えましたが、その指導はあまりに苛烈でエゴに満ちたものだったようです。アルコール依存症であったヨハンは、酔ってはベートーベンや妻に暴力を振るい、機嫌よく酔っ払った時には夜中にベートーベンを起こし、ヨハンと一緒に酔っている友達の前でピアノを弾かせることもありました。そして自分が才能あるピアノ奏者のベートーベンの創造物であると威張っていました。そんな父親にベートーベンは11歳で学校を辞めさせられています。酒に溺れ宮廷声楽家を失職した父親に代わって、ベートーベンは病気がちな母親、幼い兄弟たちの生活のため働かねばなりませんでした。

親からは十分な愛情を与えられず経済的にも不安定な生い立ちを、今や楽聖(がくせい)とも呼ばれるベートーベンは過ごしました。父親の暴力の被害者でもあった母親はベートーベンに十分な愛情を与えることはできず、しかも結核で臥せっていたため、反対にベートーベンが面倒を見なくてはいけませんでした。父親は何度も泥酔し警察に捕まり、そんな父親を警察まで迎えに行くのもベートーベンの役目でした。

そんな両親と死別し、29歳の時にヨゼフィーネという貴族の娘と出会い、その後二人は強く惹かれあうようになりました。深く敬愛しあうようになる二人ですが、ヨゼフィーネの両親たちは自分たちと身分が釣り合わないベートーベンとの将来に反対します。初めはそんな両親の意見には耳を傾けなかったヨゼフィーネですが、次第に家族の説得や脅しの結果、彼の元を去っていきます。

失意に落ちたベートーベンはやがて酒に溺れるようになっていきます。そんな失意の中から何年もの時間をかけ友達がベートーベンを引き上げてくれます。しかしこのころから彼の肝臓は飲酒により蝕まれ始めます。

ベートーベンの人生は病との闘いと言ってもよいかもしれません。20代半ばからひどい耳鳴りに悩まされ次第に難聴となり、48歳ごろには完全に聴力を失います。また、32歳のときにはひどいうつ状態になっています。その時には自殺まで計画し遺書を書いています。現在でいうと心身症と診断を受けるような傾向が現れています。このような心と体の不調を抱えながら、ましてや音楽家に必須な聴力を失う苦難に見舞われながらも彼を再生させたのは、彼の友達と彼自身の音楽への愛情に他なりません。そんな彼の不屈の生命力、そして他の存在への深い愛情が、素晴らしい音楽を生み出したといえますぴかぴか (新しい)

 

彼が残した作品の中でも交響曲第九番は彼の集大成ともいえる作品です。彼が生きた時代においてタブー視されていた分け隔てない愛を声高々に歌い上げる合唱を、オーケストラが奏でる交響曲と史上初めて融合させました。この第九の作曲を行っているころに、養子にし愛していた甥が自殺を計り疎遠となってしまう大きな出来事も起こっています。そのような失意の中から、さらには完全に聴力を失った状態でこれだけの大編成のオーケストラによる交響曲を作曲するなど、彼以外には成しえなかったといえます。ベートーベンは56歳で肺炎のためウイーンでその生涯を閉じました。世界に対して己が持つ全てを与えたベートーベンですが、彼の葬儀には2万人もの市民が参列したといわれています。

 

ところで、そんな第九が初めて日本で演奏されたのは1918年、第一次世界大戦で台湾の青島(ちんたお)を守備していたドイツ兵が捕虜として徳島県鳴門に連れてこられたことがきっかけのようです。この時のドイツ兵捕虜収容所の所長であった松江陸軍大佐は、ドイツ兵を人道的に受け入れたことで知られています。また地元の人々も元来お遍路さんを手厚くもてなす風習を持っており、捕虜であったドイツ兵をも温かく迎えたのです。

 

そんな交流の中でドイツ兵による第九の演奏会が行われたのが日本初演となります。千人ほどの捕虜の中で、よくもこれだけ難解な第九の演奏ができたものだと奇跡的な運命を感じます。第九の演奏が年末に定着したのは第二次世界大戦後です。現在の東京藝術大学で学徒出陣の壮行のため演奏され、やがて終戦となり今度は生きて帰れなかった学生のために1947年12月30日に再び第九が演奏されたのです。それが毎年行われるようになり、全国に年末の第九が広まったといわれています。

 

ベートーベンと第九について話をしてきましたが、この記事ではやはり足りませんでした。ベートーベンの生きた時代はカトリック教会や貴族の影響力は絶大で、科学的な知識を持ち教会の教義や貴族の支援に背を向けた彼は異端であり、先を見据えた偉人でした。

新型コロナウイルスのまん延により、社会は今までの方式や価値観が大きく揺さぶられています。人の肉体的接触が遠ざけられるだけでなく、ウイルスに対する恐怖のためか、感染者やその治療にあたる医療従事者などへの誹謗中傷にもみられるように、心と心の隔たりも表面化してきているように感じます。そんな今だからこそ、他人への愛がめいっぱい込められた音楽が私たちにはより必要だと思います。

 

すいません、今回は鍼灸施術に関わることはどこにも出てきませんでしたが、この年の瀬は素晴らしい音楽に触れ、心身の癒しを受けてください。では換気を行った部屋で歓喜の歌を聴きながら筆をおくこととします。

 

神戸東洋医療学院付属治療院  川上 靖

 

 

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